ぶらり人生途中下車の旅

ボンクラライフ

読了:谷川流 『涼宮ハルヒの退屈』 『涼宮ハルヒの消失』


涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫) 涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)


■ ここまで読み終わって…
ここまで読んで、私を軸に(人によって違うかも)考えたことを書く。
評論は身内関係しか読んでないので、何かと内容が重複してたら勘弁で。


入学から幾月たっての新たな学校生活というのは、非常に退屈である。
私も登校→授業→昼飯→授業→部活のルーチンワークが何年も続いていた。
だから高校頃は、流石に学校生活という“ワルツ”に踊り飽きていたと思う。


つまり、学校というワルツを踊る演舞場の中でロックを欲する時期があった。
(この「ロックを欲する」=「何か面白いことはないか?」と考えておきたい)
その私が求めた、ハードロックに『ハルヒ』はなった可能性が高かったと思う。


読書中の『涼宮ハルヒ』シリーズの物語は、一応学校生活がベースとなる。
涼宮ハルヒと主人公・キョンを含めた子分が結成したSOS団が巻き起こす物語。
日常性を強調しながら非日常的な出来事が連続する、そこが大きなツボだった。


「毎日がこうだったら面白いのに」的な願望の一部具現化、それに近いかな?
だから「ハルヒ主義者になったかな」と思ったのは、高校の昔話をしてた時だ。


同時にキョンという主人公が、その固有性が薄い人物設定となっている。
特殊な人物に囲まれた平凡な主人公に読者自身を倒錯できる余地を残してる。
たぶん、数年前の私なら確実に「キョン=自分」の図式を提示したに違いない。


逆に、今ならば「高校」という舞台装置に親近感を抱かないのが本音だろう。
たぶん自分がこの波に乗り切れてないのは、ここら辺が響いてるかもしれん。
実はロックにも食傷気味であるのも大きな要員かもしれない、違う意味ではね。