ぶらり人生途中下車の旅

ボンクラライフ

読了:永井純一『ロックフェスの社会学:個人化社会における祝祭をめぐって』

箱根で実施した単身読書合宿のアウトプットを兼ねて合宿中に読了した本の感想文を書いてみた。

本書は、日本におけるロックフェスの隆盛を「祝祭」と「イベント」の観点から考察を重ねたものであるが、個人的にはフェスに限らず、現代におけるライブエンタテイメント全般を読み解く上でも非常に重要な視点を与えてくれる内容だと感じた。

冒頭、著者は日本のロックフェスの定着・発展において、ロスジェネ世代が担い手であることに着目し、彼らの「バブル以降のオルタナティブなライフスタイルや価値観と共振」したのではないかという仮説を立てている。さらに、社会生活において個人化が進行したゆえに「(孤独な)個人が祝祭に現れる一般的な共同体/性を希求するという祝祭をめぐる共同体と個人化のパラドキシカルな関係性」にも注目した点も興味深い。このように、本書は90年台後半以降の音楽業界というよりも、フェスという場所=空間に関する分析が行われている。

ー なぜ、ロックフェスは「雰囲気」を重要視するのか?

f:id:y141:20190711111040j:image

自分もフジロック等は未参加ながら、モンバスやサンバーストといった野外フェスに参加経験があるので、本書で語られる一般的な音楽ライブとロックフェスの違いは概ね理解しているつもりだ。

ライブは参加者全員が同じプログラムを体験し、その一体感を味わうことで「物語」を受動的に享受するのに対し、フェスは「個人が数ある選択肢の中からそれぞれのプログラムを作成し、主体的に物語を紡ぐ」のである。ロックフェスはあれだけの動員規模を誇りながらも「個人化をそれ自体に組み込む」かたちを取っているという本書の指摘は的確だと思う。

同じ時間・空間に身を投じているが、内部において異なる出来事を体験しつつ、それでいてフェスとしての体験は共有されている。言語化されたことで気づいたことだが、こうしたフェスにおける体験の共有、年2回開催されるコミックマーケットにも通じる構図だろう。

インタラクティブ性の高さがフェスの醍醐味であり、そこ(フェス)に行って各自が思い思いの時間を過ごすことが出来ることが、「終わりなき日常」を生きる人々にとって価値あるものとなるという指摘は非常に納得がいく。本書で紹介された、音楽全般やヘッドライナー以上に「フェスティバル全体の雰囲気」が重要視される調査結果が出てくるのも、こうした志向を顕著に示すものだと考えられる。

それに対し、当方がよく足を運ぶアイドルフェスなどによくある傾向だが、フェスティバルが重きを置く価値観と特定アーティストを応援する固定ファンとの相性は良くないのも理解できる。ロックフェスの「地蔵」、あるいはアイドルフェスの「最前管理」問題は、ある種の文化的衝突のようなものかもしれないと本書を読み進めながら考えていた。かと言って、フェスのスタイルを押し付けることは「ライブを見ずにまったりする」ことを良しとする志向に反するものであり、なかなか難しいとも感じた。

ー「直接的聴取」と「周辺的聴取」

また、本書の中で興味深かったのが、コンサートとフェスにおける聴取の違いである。クラシックに代表される専門劇場でのコンサートは「作品を一つの全体として理解し、各部分をその全体の中に位置づけるような構造的な聴き方」=「集中的聴取」であるのに対し、フェスでは「おもしろい風景に出くわすと目がきょろきょろするのと同じような」聴取=「周辺的聴取」であると指摘している。

たしかに、フェスにおける鑑賞・聴取はステージのパフォーマンスだけでなく、現場で発生する様々な出来事に対し、臨機応変にノリで対応し、個々の音楽体験として刻まれるものだ。よくある話だと思うが、足を運んだステージで初めて見るアーティストもいるし、たまたま他のステージで演奏しているのが耳に入ったケースなどもあるだろう。アーティストが持つバックグラウンドや文脈を知らなくても楽しむことができることもフェスらしい楽しみ方だと思う。

私見:「フェスティバル化」するスポーツイベント

f:id:y141:20190711111201j:image

ココからは、本書を読んだ上での私見を書きたいと思う。自分はスポーツイベントにおいても、本書と同様の視点で考えることができると考えている。例えば、国内プロサッカーリーグ・Jリーグは、メディア露出が少なく、観客動員に伸び悩んだ時期においても、競技・リーグ構造を理解する「集中的観戦者」を軸に据え、各地でプロサッカークラブが誕生するリーグの拡大期を実施した経緯がある。

一方、各地域におけるプロサッカークラブ誕生に伴う「熱狂」を終えた今般においては、多くのクラブが競技上の「競争」と興行上の「観客動員」という課題に直面する。Jリーグ加盟・昇格を熱狂の頂点、あるいはボードリアール風に言えば「大きな物語」が終焉したとしても、クラブの歴史は続いていくからだ。こうした状況下、観客動員の起爆剤として、サッカーだけではない魅力を発信することで、より多くの観衆を集める努力が進めている。言うなれば「周辺的観戦」の志向を取り入れ、サッカーイベントの「フェスティバル化」が進んでいると考えるだろう。(自分が応援する川崎フロンターレは最たる事例だと思う)

ただし、競技における勝敗の世界だけに「集中的観戦」を求める層と、「周辺的観戦」を志向する観客の認識のズレが出ることがある。年数回、ネット上で盛り上がる「サポーター論」なる無益な議論が出てくるのも、それぞれの方向性の違いがなすものだと個人的には考えている(妥協点が見出せない故に永遠に答えは出てこないだろう)。

個人の意見であるが、各クラブによって違いはあると思うが、まずは多くの人に足を運んでもらうために様々な魅力を発信し、そこからチーム・競技に対する関心を高めてもらうような「復習型」の楽しみ方を提供する流れを作ることが望ましいだろう。そのためにも、既存層から「周辺的観戦」に対する理解を促すことも大事だと思うし、ヘッドライナーはサッカーにおける競技面の魅力を高め、伝えていく努力も必要だと思う。

他方、プロ野球を見ると、観戦位置で「集中的観戦」「周辺的観戦」のゾーニングが進んでおり、近年における球場のボールパーク化の動きはその流れを加速させていると言える。プロバスケットリーグ・Bリーグは、アリーナ全体の一体感を重視した「集中的観戦」がスタンダードになっているが、エンタテイメント要素との相性も良さを鑑みても「周辺的観戦」との高度な共存が課題だろう。

参加者たる個人が選択可能な多様な観戦スタイルを提供・共存できる仕組み作りは、日本のスポーツビジネスにおける1つの伸びしろであると考えている。その流れの中での「フェスティバル化」は今後も続くのではないだろうか。

f:id:y141:20190711125750j:image
本書におけるロックフェスが作り出す「共同体」(ただし、本書では同時に継続性が期待できない「クローク型共同体」であると指摘している)と現代社会における「個人化」の関係性は、ライブエンタテイメント全般を考えていくうえで非常に重要だ。手に取る前は、社会学のレトリックがハマるかいまいちイメージできなかったが、当事者・参加者であるほど理解が得られやすい視点だと思った。研究者はもちろん、社会学の知識が少しでもあれば参加者にとっても面白い内容だと思う。

ブログランキング・にほんブログ村へ

にほんブログ村