ぶらり人生途中下車の旅

ボンクラライフ

『セッション』

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〇 スポーツ観戦者の視点で見る『セッション』

先日、TOHOシネマズ新宿で『セッション』を鑑賞。劇場で見た予告編のインパクトも大きかったことから、公開前から楽しみにしていた映画の1つです。アカデミー賞部門に輝くなど、注目度も高まっていただけに、自分が訪れた回も平日昼ながら8割近くの客席が埋まっていて驚きました。

見終わった後の背筋を伸ばさずにはいられない緊張感、画面越しの威圧感、そして見終わった後の独特の高揚感、映画を見ていたとは思えないテンションに陥りました。主なあらすじと、映画を見て感じたこと(今回はネタバレ含)は以下のとおりです。

〇 あらすじ


アンドリュー・ニーマンは、全米屈指の音楽大学・シェイファー音楽院に入学した19歳のドラマー。ある日、夜にドラムの練習しているところに偶然、同校の伝説の教師・フレッチャー教授が現れる。ひと時だけ演奏を聴いてもらえたが、すぐに立ち去ってしまう。

その後、ニーマンの所属するバンドのレッスン中、突然、フレッチャーが姿を見せた。フレッチャーはバンドの各メンバーの演奏をチェックし、ドラムの主演奏者ではないニーマンに自らのスタジオバンドの練習に参加するよう声をかける。ニーマンはフレッチャーのスタジオバンドに初めて参加することになるが・・・。

 〇 感想:変化するカタルシス

正直、映画の物語全般が音楽を題材にした映画とは思えないテンションで展開されていました。高校演劇を題材にした『幕が上がる』を見た時の感想にも書いたのですが、本来は勝敗を競うものではない演劇や音楽といった世界の中にも「絶対に負けられない戦い」があり、スポーツの世界と同じような構図は多く内包されていることは理解しています。ただし、本作の後半は、本作の宣伝文句にもあるように、自分の認識を大きく超える「狂気」の領域に達していたと思います。だからこそ、一段と大きな衝撃を覚えました。

 1.スポーツ観戦者の視点で見る主演奏者を巡る競争

本作は、物語の前半と後半で大きく質が変化したと思います。物語前半については、スポーツ漫画のようなカタルシスが展開されていたと思います。ジャズに関して門外漢なのですが、スタジオバンド内でニーマンの担当するドラムは1つしかないポジションでした。練習中、主演奏者ではない控えのドラマー(序盤のニーマン)は、隣に座り、楽譜をめくる等のサポートをします。他の楽器を担当する人物が多くフォーカスされなかったこともありますが、奏者の「序列」が明確に表れていたと思います。個人的には、この構図が、サッカーにおけるGKに近いと思いながら見ていました。1つしかないポジションだからこそ、定位置を奪うための競争が過酷であること、本作ではこの点は何度も強調されていました。

フレッチャーの強烈な洗礼を受けながらも虎視眈々とレギュラー奪取に燃えるニーマンは、ストイックなまでの猛特訓にのめり込みます。この辺は、完全にノリはスポ根の世界です。しかしながら、チャンスは実力というより、アクシデントを契機に訪れることになります。ニーマンに預けた楽譜を無くしてしまった主演奏者が演奏を行うことができず、暗譜していたニーマンが急きょ演奏に参加することとなり、その後、フレッチャーはニーマンを主演奏者に格上げしました。怪我のために出場機会を得た控えGKがレギュラーに定着する、サッカーで見るようなエピソードです。

<追う側から、追われる側に>

本作が容赦無いと思ったのは、今度はニーマンが主演奏者として追われる側に立たせたことです。新たな楽曲を演奏するにあたり、フレッチャーは新たに声をかけた別のドラマーを主演奏者に指名します。GKに喩えれば、自分がレギュラーに定着して結果を残したのに、監督の希望で新しいGKを補強してきたような話です。控えに落とされたニーマンは、今度は半ば執念や怒りのような感情を丸出しにして練習に取組みます。そして、文字通り、熾烈なポジション争いの末、ニーマンは主演奏者の座を奪回します。個人的には、フレッチャーから「お前が主演奏者だ」と言われた瞬間が前半のハイライトだったと思います。

2.プロレス者の視点で見る「狂気」

見終わった後に考えてみれば、前半の過程が後半の展開に至る引き金になったわけですから、製作者側も用意周到というか、段階を踏んで主人公を追い込んでいることがわかります。執念で取り戻した主演奏者の座を取り戻したニーマンですが、今度は自分がアクシデントで追い込まれることになります。この辺の展開もまた、面白いというか怖いくらい平等で容赦無いと思いました。結果的にニーマンはフレッチャーと衝突し、最終的に退学にまで発展します。

<承認の矛先>

私は、後半の流れを劇場で見ていて、自分の中でミスリードがあったことに気付きました。前半の話を見ていた時に、ニーマンはフレッチャーに自分の存在を認めてほしいという承認欲求が異常なまでの執念を引き出したと思いました。だから、フレッチャーがニーマンに「お前が主演奏者だ」と声をかけた場面は、エヴァでゲンドウが使途を殲滅したシンジに「よくやった」と声を掛けられた状況と同じだと考えていました。

しかし、そうではなかった。ニーマンの野心は、もっともっと大きなものでした。偉大なミュージシャンとして成功する(フレッチャーが彼に述べたような孤高な存在として)、主演奏者と演奏にかける執念が強い自我へと発展した末の衝突だったということが、ハイテンポかつハイテンションな展開の中で徐々に腹に落ちていきました。

<「狂気」と再び向き合う>

フレッチャーとの衝突を経て退学した後のニーマンは、目が死んでいるように描かれています。それまでに、何かを訴えかけるような目・表情を描き続けたからこそ、そのギャップがわかりやすかったと思います。そこで、冒頭の場面と逆の展開で街中のバーでフレッチャーと偶然再会することになります。そして、フレッチャーの誘いで再びステージに立つ機会を得ることになります。ドラムに対する情熱を失ったニーマンは、何かを取り戻そうと動き始める場面を見ながら、観客側は大団円を身構えていたと思います。

核心は避けますが、実際はそうでなかった。終盤は、まるでリングに立っている場面を見ているような、フレッチャーとニーマンの「闘い」でした。ニーマンは、再び対峙したフレッチャーの狂気に圧倒され、一度は場外に逃れます。しかし、再びニーマンはリングに戻っていくのです。狂気に触れて闘争本能に火が付いた瞬間、そして目の輝きを取り戻したニーマンがそこにいました。

<広義の意味でのプロレス>

2人の衝突を見ていて、私はプロレスのタイトルマッチを見ているような感覚になりました。プロレスとは、互いの存在価値をぶつける者だと思います。だからこそ、自分がプロレスにおいて難しいと感じているのは、プロレスにおける勝敗というのは、単純に試合の勝敗だけでなく、内容で相手の存在を上回らなければならないことだと考えています。試合には勝ったが、敗者の存在感が相手を上回っていれば敗戦に等しいものだと思います。本作の終盤の衝突は、自身・相手の善悪や正当性を主張するのではなく、自らの存在価値や理念が衝突する、その意味では広義の意味でのプロレスだったと思います。

 

以上です。感想を書きながら、また異様な高揚感に襲われている自分がいます。1つ1つの場面や台詞が次の展開への伏線だったり、前の場面の同じ構図の逆の展開であったり、振りかえるほど、改めて用意周到であることにも気づかされます。ジャズを扱っているはずなのに、感想に音楽に対する言及が無いというのもアレですが、それほどまでに構図等で見せている映画だと思います。色々と話題になっていますが、批評だけで映画を語るというのは、個人的に最悪なタイプだと思うので、まずは自分の目で見て、自分の言葉で語ってほしいですね。

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