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ぶらり人生途中下車の旅

ボンクラライフ

『ヴィオレッタ』


■ 「凡人」か?「普通」か?
先週、渋谷のシアターイメージフォーラムで映画『ヴィオレッタ』を鑑賞してきました。映画の内容を知った時から気になっていた作品で、公開している劇場が限られていたので、見に行けて良かったです。映画の内容については、面白かったというより、「刺さる」映画でした。映画の概要を踏まえ、自分が見て感じたことは以下のとおりです。

〇 作品概要
物語の主人公は、12歳の少女・ヴィオレッタ。彼女は曾祖母と2人で暮らしており、母親のアンナは彼女たちと離れて暮らしている。アンナは、過去に画家を目指していたが、現在は写真家としての道を模索する芸術志向の高い人間で、ある時からヴィオレッタをモデルに写真を撮り始める。アンナは次第にヴィオレッタに対して過激な衣装やポーズを要求するようになり、その内容は周囲からも高い評価を得る。しかし、アンナに従っていたヴィオレッタも要求に対して反抗するようになり、一方で作品内容が過激すぎるとして世間の批判を受ける。状況の変化を受けて、2人はそれぞれ異なるかたちで追い詰められるようになっていく。

◯ 3世代の女性の価値観とズレ
本作は、実際に母親に写真を撮られていた、監督自身が経験した実話をベースにしています。ヴィオレッタを取り巻く空気感というのは、監督が理解しているものだと思います。私が物語を通じて気になったのは、祖母、母、娘の3世代の女性の価値観とズレの部分です。
まず、ヴィオレッタの面倒を見ていた曾祖母は、信仰心の強い人物として登場します。娘が放棄した孫娘の面倒を一人で見ており、ヴィオレッタの連れまわす、娘・アンナの行動を幾度となく批判するとともに、彼女に災いが起こらぬよう、お祈りする姿は何度も出てきます。
一方、アンナは、自分が手がけた作品を通じて、自らの存在を周囲の人たちに認めてほしいという、承認欲求、自己顕示欲を前面に押し出しています。それは、自分は普通の人間とは違う「特別な」人間であるという意識が背景にあることは読み取ることができ、それ故に自らの創作活動に理解を示さない母親を避ける場面が何度も出てきます。娘であるヴィオレッタに対しても、愛しい存在であることに違いないと思うのですが、それは娘である以上に作品を構成する大切なモデルだから、という比重が物語を進むに傾いていくことが窺いしれます。
そして、ヴィオレッタの変化は最も大きく、作品を見ていた自分にも大きな衝撃を与えました。純粋かつ無垢な存在である少女が、次第に光のある世界から遠い位置に身を置かれていく過程をみているようで、正確な表現ではないかもしれませんが、一種の辛さに近い感情が沸き起こってきました。彼女が母親の作品のモデルになったのは、もちろん綺麗な衣装を着ることができる等の魅力もあったかと思いますが、最も大きな理由は、普段は疎遠な母親と過ごすという時間であり、母が側にいる日常を望んでいたのだと思います
しかし、母親と過ごした時間がもたらしたのは、普通の少女に戻れない状態にまで変わった自らの存在であり、その変化を受けて、結果的に友達や家族、さらには日常を失うことになりました。そうしたヴィオレッタの絶望に近い感情を読み取ったうえで、ラストシーンの彼女の行動を見ると私は強く共感しました。

(終盤で複雑性を深める事実は判明しますが)親子であることから、互いに決定的な分裂はないですし、お互いに繋がることを求めているのはわかります。でも、価値観は最後まで分かり合えなかった。物語の後半で、ヴィオレッタがモデルを辞めるとアンナに述べると、彼女がそのことが「凡人」になることを意味すると強調します。しかし、ヴィオレッタは「普通」に戻りたいと主張します。これがまさに、本作を象徴する場面であったと思います。本当、見終わった後に、ここまで、心の中でざわついた映画は久々です。
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